当事者意識の意味を考察し、傍観癖を蹴り倒せ!!

当事者意識と言うと、

勿論、

自分自身が、実際に行うことを、

想定した上での見解とも、言えるものではありますね・・・・・。

だけど、

そう考え見ると、

逆に、

自分自身が行うからこそ、

慎重になったり、臆病になったり、

またまた、

ひどい場合だと、それまでの、

人ごとでの意見とは、真逆の姿勢になってしまうのも、

また、

人の弱い部分ではありますよね〜・・・・・(苦笑)。

だけど、これまた、

当事者意識ってものを、

抽象度を高く、より、重要度を高く、

考察していくと、

当事者意識を持つ=すでに実行している、もしくは、

当たり前に実行すると言った具合にまで、

意識が高まっていくニュアンスも、

もたらす事も、可能な言葉ではあります。

※まぁ、その本人の、在り方次第ではありますが。

それらを踏まえて、

今回は、

当事者意識を持つことって言うのは、

勿論、

今後の、自分自身の、

未来の指向性を決定するものでもあり、

もっと精度を高めてしまえば、

今後の、自分自身を中心とした、

未来世界の、予言とも言えるものでもありますが、

当事者意識の意味を考察し、傍観癖を蹴り倒せ!!

ってテーマについて、アレコレ考察していきましょう!!

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傍観癖を蹴り倒せ!!

これは、

至極、簡単に言ってしまうと、

3通りの反応のとりかたに分けられるものではありますが、

要するに、

あえて、

自覚的に行動するか、

または、あえて、

自覚的に思考するか、

あるいわ、

あえて、

自覚的に感情のままに動くかって事の、3通りの反応ともなることでしょう・・・・・!!

すごく達観して俯瞰して、

シンプルに、大枠として、統合した上での、視点での話にはなりますが、

思考

または、

その元になる感情

または、

それを行動に移して受け取る事の出来る現実っていうものは、

全部、

誰かとリンクしているっていう認識を、

持つ事も、可能な事でしょう・・・・。

そのような、

ある意味、

たとえ、自分自身、一人だけの問題であっても、

もしくは、

独り相撲にも見える問題であったとしても、

何処かの誰かとの、繋がりが存在するっていう現実を知る事、

すなわち、

繋がりを意識的に、活用することを、

考え見ると、

『自分』っていう存在の意義や、

『自分』っていうものの運命っていうのは、

もしかしたら、

「あらかじめ決められているんじゃあないのか?」

っていうような、

妄想でもあり、

運命論ってものに囚われてしまう可能性も出てくることでしょう・・・・・。

勿論、

生きる目的と言ったような、

指向性を、望む方にとっては、

大枠で言えば、

このような、

運命論ってものも、大事になることでしょうが、

この運命論っていうものでさえ、

そこに、自覚的に、

自分自身で、当事者意識を持たない事には、

『自分』が生まれてきた意義ってものや、

『自分』の生きる目的ってものを、

無自覚に奪ってしまう概念になってしまう危険性も、

孕んでいるのです・・・・・!!

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たとえ、大枠でもいいから、大味でもいいから、自覚を持つって事の重要性。

たとえ、大枠でもいいから、大味になってでもいいから、

そこに、自覚的に成るか?

もしくは、

流されるままに、仕方が無しに、運命だと諦めるか?

には、

客観的には、同じように見えても、

大きな違いが生じるものでしょう・・・・・。

要するに、

主体性の違いでもあり、

また、

影響力の違いとも、言えるものでもある事でしょう・・・・!!

だからこそ、

「あえて、自覚的に成る」事が大事だと言うのです。

人っていうのは、

健康体である限り、

一日中、

何も考えないで、ボーッとしている事って、

出来そうで、中々出来ない事でしょう・・・・・。

要するに、

何かしら、感情が湧き起り、

何かしら、思考が浮かび、

何かしらの、

行動を起している事でしょう。

その感情や、思考がもし、

陰謀論の如く、

誰かのサインや、

誰かの目論見によって、

『自分』が受け取っていたとしたら、どうしますか?

すごくザックリ言いましたが、

要するに、

自分自身が、無自覚に、

適当に、思考なり、感情を受け取ったり、

行動を起こしているようなことでさえ、

マクロで見れば、

何かしらの、大枠の概念でもあり、

大きな流れからの影響を、受けているものでもあり、

大きく言えば、

同じ、大枠の概念でもあり、

同じ、大きな流れからの影響を、

同じように、受けている人々って言うのが、

存在しているって言う、認識を持つことでもありますね・・・・・。

このような、

ある意味、

運命論や、陰謀論って定義出来るような、

大きな概念ってものは、

「そんなものは存在しない。」って、

頭から否定する事って、出来ないことでしょう・・・・・・。

ま、はっきり言って、

何処かのある一定の誰かが、特をするような、

大きな概念のことを、

陰謀論といい、

そこに、主体性を持って、

自分自身も参加している場合のことを、

運命論って定義するものなのかもしれません。

だけど、

人とのリンクや、

人とのシェアっていう概念が、

インターネットが発達した事により、より顕著ともなり、

昔だったら、

そこまで幅広い世界が見えていなかったでしょうが、

今では、

自分のコンフォートゾーンの外の人達や、

リアルでは縁がなく、

簡単に、交流出来なかったような人達とも、

比較的、簡単に交流出来るようになった事により、

より顕著に、

その繋がりが、体感出来るような、時代となってきた事でしょう・・・・!!

要するに、

抽象度を高めて、

簡単に言いますと、

元々存在していたであろう、

人と人との関連性が、浮き彫りになってきたとも言えますし、

運命論陰謀論を、

自分自身で、選べる時代になったとも言えます。

この事実は、

もしかしたら、

『自分』っていうものが、

取るに足らない存在っていう、

残酷な実感を、あなたに与えるかもしれません

それによって、

自暴自棄に陥るかもしれません。

けれども、

その自暴自棄は、

絶望を受け取ると同時に、

その絶望を、受け入れる事が出来たならば、

逆に、

『自分』は確かに生きているっていう、

魂の叫びでもあり、希望をもたらすものでもある事でしょう・・・・・!!

嫌だって気持ちを大事にしよう。

「嫌だって気持ちを大事にしよう。」

っていう名言があります。

『自分』っていうものが、

取るに足らない存在かもしれないっていう事、

この事実がだったら、

自覚的に、あえて、

たとえ、

誰かの運命論の範疇であったとしても、

または、

誰かの陰謀論に巻き込まれているんだとしても、

『自分』ってものを、

自分自身で定義する事が重要となります。

勿論、

その自分ってものは、

大きな概念で見た自分でもあり、

大枠でもあり、大味な定義でもいいのです。

一旦、

定義され、

その行動を続けていく事で、

モヤッとしか見えていなかった『自分』

誰かの物真似でしかなかった『自分』ってものの輪郭が、

はっきりと、

くっきりと、

具現化して行く事でしょうし、

大枠でもあり、大きな概念に拘ること、

定義し続ける事が出来たならば、

細かい枝葉末端のことは、後からついてくることでしょう・・・・・・!!

もっと言えば、

枝葉末端ではなく、本質に拘るとも言えることでしょう・・・・!!

が、

等身大の、自分自身の大枠ではなく、

自分自身の器を超えた、大枠ばかりに目を向ける事も、

逆に、

自分自身を見失うことにも、なりかねないものでしょうから、

地に足を着けた上での、

大枠に拘る事が、望ましいと言うことではありますね・・・・・(^^)

「我思う、故に我在り。」

有名な、哲学者でもある、

ルネ=デカルトの名言に、

「我思う、故に我在り。」って言葉が在ります。

これは、まぁ、

自分自身が、定義する事で、

自分ってものが、出来上がっていると言う、

事実を現してはいるでしょうが、

実は、思考ってもの自体は、

自分自身の、自我の範疇だけでは、コントロール仕切れるものでも無い事でしょう・・・・。

もっと言えば、

環境もそうですし、その、相対する人もそうでしょうし、

またまた、

今までの人生での、環境なり、関係性を持った人々全てが、

思考には、何かしら、関係してくるものでも在りますね・・・・・。

要するに、

それらはまぁ、あまり、

自分自身で、コントロール出来るものでも在りませんから、

自覚的に、

「我思う、故に我在り。」とするには、

あまり、フォーカスを向けていては、

いけないものだと、認識する事も、可能なものでも在りますね。

だからこそ、

ある意味、

大きな概念でもあり、大枠をまず、

定義する事が、肝要だと言いたいのです。

大きな概念でもあり、大枠をまず、

定義してしまう事で、

細かい部分や、枝葉末端の部分て言うのは、

自分自身が、すでに持ち合わせているリソースから、

適当に、便宜付けられて、出来上がっていくものでもあるのです。

だけど、

その、大きな概念や、大枠ってものは、

決して、大きすぎれば良いと言うものでも無い事でしょう・・・・・。

自分自身が、出来うる事の範囲を超えて、

大きすぎるものとなった定義ってものは、

新しく、何かを始める時には、役には立つ事でしょうが、

その後に、キチンと、

等身大の、自分自身の影響力ってものを、

考え見る必要もあり、

なおかつ、

等身大の、自分自身が行動として、

表現出来るものを、考え見る必要性も、あるのです。

この上記の、2点の違いってものは、

その、「我思う、故に我在り。」を、

実行した上での、自分自身に集まる情報でもあり、

自分自身に集まる人ってものの、

種類の選別にも、当てはまってくる事でしょう・・・・・!!

ま、簡単に言えば、

自分自身が、その中心に近い立ち位置となるか?

もしくは、

自分自身が、その中心から遠い立ち位置となるか?

違いではありますが、

これをもっと掘り下げて見ると、

自分自身が、価値の提供者となるか?

自分自身が、価値の享受者となるか?

違いでもありますね・・・・・。

この、言葉だけをとると、

価値の享受者となる方が、

断然お得には見える事でしょうが・・・・(苦笑)、

人間、器が伴わないと、

価値ってものを享受出来ないって事も、

頭に入れておきましょう・・・・・(^^;)

ま、要するに、

価値の提供者となる方が、

色々と、受け取れる価値も多くなるでしょうし、

自分自身の、器が伴わない事には、

お金や対価が、価値を享受するためには、

より、必要となるでしょうし、

またまた、

その価値の種類は、

人によって、経験によって、様々でもあり、

特化された、価値を提供する経験があれば、

その分野では、当たり前のように、

対価も特別必要無く

受け取れる価値ってものが、すでに、存在すると言うことでもありますね・・・・(^^)b

まとめとして。

いかがでしたか??

傍観癖を蹴り倒せとは言っても、

自覚的に、傍観している場合もありますので、

当事者意識を定義させれば良いと言うことではありますね・・・・(笑)。

またまた、

当事者意識ってものは、

何でもかんでも、当事者意識を持てば良いと言う代物では無いことでしょう・・・・・。

要するに、

そこに、陰謀論を感じる場合は、

あえて、傍観出来るように、

自分自身を、定義すれば良いだけとも言えますが、

自分自身の、行動とか、影響力ってものは、

少なくとも、責任を持つ必要があると言うか、

責任放棄しても、必ず、何かしらの影響を、受け取るものでもあるでしょうね・・・・(^^;)

要するに、

どうあがいても、

無視し続ければ、悪影響しか出ないでしょうから、

そこは、

意識的に、自分自身を定義して、磨いていく方が良いってことですね・・・・(^^)

まぁ、

運命論の範疇かもしれませんが、

少なくとも、

絶対正義の、唯一無二の道では無く、

適当にも見えて、

結果的に、絶対正義の、唯一無二の道となるってニュアンスではあるでしょうが・・・・(^^)

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